インド全土でのロックダウン。こんなインドとは言え、何とかうまく行くのかなと思いきや、デリー周辺で、仕事がなくなり、貯蓄もなく、コロナ以前に食べられずに死にそうだという、周辺州からの出稼ぎ労働者が、大量に民族大移動をはじめた映像やリポートが悲しすぎる。ガツンと開始したは良いが、底辺の人は完全に置いていかれた。荷物と子ども抱えて100km以上歩いて帰るとか、いったい…。
こちらラダックはといえば、3月頭にイラン巡礼帰りの人たちから感染者が出たため、インド全体の動きよりは少し早めに対策しだしたのが良かったのかもしれない。今は陽性だった人もリカバリーし、感染者数は13人から10人に減少した。
また、イランから出国出来ないでいた1000人近いラダックの巡礼者も、ラダック唯一の国会議員(BJP)を中心とした動きで帰国してきている。もちろん隔離になるわけだが、飛行機はジャイサルメールに着陸し、そこの軍施設にいるという。
ラダックにおいて、早めに感染者が出たことは、デリー周辺で問題となっている前述の労働者の移動を、事前に食い止める形となった。というのは、毎年春が来る3月半ば、職種によってはだんだんと労働者がラダック入りする時期なのだ。だから、この人の移動を止めなければ、すぐに感染者数が跳ね上がるだろうことは簡単に予測できた。そこで、旅行者を入れないと決断した後すぐに、労働者も受け入れないようお達しが出された。また、既に入っていた労働者には検査もすると。またすごいのは、そんな労働者に国の配給品、例えば米や小麦なんかも支給してあげたのだ。少数だから出来るとはいえ、その動きの早さは賞賛したい。
ちなみに、うちもネパール人の住み込みスタッフをキャンセルした。今年で3年目になる予定だった。日本人客が大半の私たちの仕事では、日本人のインド入国が制限された時点でアウトになった。だから、お達しより以前に判断し、申し訳ないが給料を払える見込みが立たなくなってしまったと伝えた。夏の半年とはいえ困ったことだろう。
ただ、収入源が断たれたのはお互いさまになる。とはいえ、北インドのUK州との国境地帯に住む彼の自宅は、食材で買う物は塩くらいだと言うくらい、何でも採れるらしい。(ネパール人でもインドにばかりいて、90%インド人的アイデンティティの彼の言うことがどこまで本当かは不明ながら) 食うに困ることは無さそうだった。だから本当に現金のために働いている。作物だって多少売っているようだし。
いつだったか、彼はまだラダックを分かってない初期の頃、ラダックでの私たちの暮らしが、大麦やちょっとの野菜以外は、米から何からほとんど「買う」姿を見て嘆いていた。これにはちょっとイラっと来た。このラダックの環境が分からぬ外部労働者に、厳しい自然環境による暮らしを軽くディスられたのだから。もちろん、これが標高3630mでのラダック、ストック村なのだと諭してやったが、この一件含め色々考えるに、どちらが貧しくて豊かなのかよく分からなくなった。
他にも大工でうちの仕事をしてくれているビハーリーも、やはり充分に畑があって作物を育てているし、材木になったり、果樹が採れる木もそれなりにあると言っていた。つまり、彼らは地元で、現金を作れないだけなのだ。
若い頃からさんざん自問した「豊かさとは何か」。北と南のアンバランス。近年はその「後進国」とか「先進国」の位置付けさえ崩れて来たが、矛盾をたくさん抱えた現実がある。
色々踏まえてみて、今回あらわになった徒歩で帰路につく労働者の人たちの中には、田舎にさえ帰れば食べ物には困らない層も充分にいると思われる。それはちょっと救いだ。もちろん、その水準にすらない人もたくさんいるだろうから、何か救いの手が必要なのも事実なわけで。
話しをラダックに戻そう。そもそも今回のインド全土ロックダウンは、ラダックにはさほどダメージがない。もちろん経済的には世界中で置かれた状況と同じで大打撃ではあるが、食料が買えないとか、特に生鮮野菜がないという状況は、ラダックの冬では普通だからだ。つまり、12月〜4月の約4〜5ヵ月は大自然による軽い「ロックダウン」を当たり前のように、毎年過ごしている。
陸路は閉ざされ、流通が途絶え、足は飛行機のみになる。経済力があるなら避寒してラダックを出るもいいだろう。デリーに着いたら、青々とした野菜を見ては感動し、可能な限り食べて栄養をつけて帰る。もしそんな必要はないと思えば、する必要もない。ゆっくりラダックで過ごせばいいのだ。または、したくても条件が整わないなら、やはり備蓄した食料を食べて、薪ストーブを囲んで冬を越せばいい。
色々な越冬方法があるにせよ、冬に向けた備蓄は必須だ。新年のロサルには、冬の間に食べる肉を確保し、干し肉にして吊るしておく。始めはフレッシュだが2月くらいにはジャーキー状態になる。硬さは増すが圧力鍋でじっくり煮込んて柔らかくすれば充分に食べられる。常温が冷凍温度だから腐ることもない。
そんな冬支度は夏からもしている。初夏の6月くらいには、やっと耕した畑に緑が生えてくる。マスタードや蕎麦の若葉だ。これはやっと食べられる野菜として食すのはもちろんのこと、同時に乾燥させて冬に食べられるように準備する。ここでは、暖かくなったと思ったら、ちゃんと冬のことを考えているのだ。
夏には、ほうれん草やらが生えるとやはり同じようにする。他にもだんだん根菜類もできるから、収穫したら納屋で保管して越冬させる。干し草で覆っておけば凍らないから、冬の間これらを食べて過ごす。こんなだから、毎年冬支度作業が完了すると、当然ながら心が落ち着くのだ。ああ、これで何とか生きて冬が越せるなと。
実はこんな暮らし、つまり陸の孤島な人たちは世界中にたくさんいるはずで、決して少数でもないはずだから、条件が似た場所なら、その地域なりの知恵をいっぱい得られるだろう。
さて、現在もちろんレー周辺もロックダウンで、通行証がないと普通には行けなくなっている。特に、空港からレーに向かうスカルザンリンクの通りは厳格だ。もちろん町の食料品店は多少開いているが人はまばら。そちら方面に行けなくて困るとしたら、我が家の場合、シンガポール産のキッコーマンの醤油と、南インド産のコーヒー豆、さらには、ケーキ作りが趣味の娘が買いたいだろうホイップクリームを買えないくらいだろうか。これらはなくても、大事には至らない。
そもそもロックダウン以前から、とっくに売り切れた品も多い。今年は特にスリナガルロードが雪で早く閉鎖になったため、うっかりな具合にかなり多くの品がなかった。卵、トマトピューレ、牛乳(市販品)なんかもいっ時買えなかった。今はちょっとずつなら売ってくれたり。
もちろん、冬の八百屋にはジャガイモとニンジン、やけに太い大根くらいが並んでいる。そうそう、たまに、空輸された生鮮野菜が八百屋に並ぶ時もあるが、この値段は夏の3〜4倍もする。幸いにも、3月に入ると地元のグリーンハウス栽培の菜物が買えるようになるからありがたい。
一方で、唯一買える肉類のチキンは、冷凍で販売しているが、これも3月くらいには質が落ちるため買わないようになる。送電がされない時間が多い真冬を越した冷凍チキンは、やはり冷凍解凍を繰り返して質が悪くなるからだ。さらには、備蓄した根菜もだんだん終わりが近づき、干し肉だってなくなる頃だ。つまり、いよいよ3月くらいには、本格的に食が細くなり、米や麦の他には豆かジャガイモか、なんて具合になる。それでもじっと堪えて、春を待つのだ。春は必ず来るのだから。
そんな頃である。質素な食生活に耐え、農作業の準備をしていると、やっと、やっとスリナガルロードが除雪作業を終えて開通するのだ。これは、厳しい冬を越えたことに対する、最高のご褒美である。
スリナガルからは、まずは食料品を優先させて車両を送り出す。レーよりも物資が少ないカルギルも、殺伐とした雰囲気が一気に明るくなるのだろう。
今年は1月以降降雪が少なく、2月半ばからかなり気温が上がったため雪解けも進み、3月半ばには物理的な除雪作業が完了した。スリナガルロードは例年になく早く開通するはずだった。が、しかし、コロナ対応策の一環として開通を見合わせていた。野菜などの物資は必要だが、規制なく開通させれば感染者を増やしてしまう。これについては協議を重ねる、となっていた。そして数日前、やっと物資の流通を開始すると発表された。人や物をしっかり管理しながらやるという。
今回のコロナ対策とその関連で行われていることは、昨年からUT(連邦直轄地)となったラダックの自治として考えると、しっかり管理が出来ていて、ちょっと安心感を覚える。まだまだコロナには油断は禁物ながら、この春の訪れが、自然の「ロックダウン」を終わらせつつあることを素直に喜び、感染から身を守るための、政治的なロックダウンの方を、じっくり続けていきたいと思う。