日常の中にある「死」
せっかくバナーラスまできたのだからと、仏教聖地とは違うけど数年ぶりにガンジス河まで足を延ばす。ここで見るべきはやはり、ガンジス河のほとりにある火葬場のガートで有名な、マニカルニカー・ガート。毎日たくさんの死体が焼かれているのである。
チベット仏教でも言われるのは、日常唱えたりするマントラと一緒に、たとえば一日に3回くらい「自分もいつかは必ず死ぬのだ」と唱えろという。でも、実際に生きている自分に対して、いつかは死ぬのだと分からせるのは、思うほど簡単なことではない気がする。それは、このように焼かれる死体を見てもそうなのだと思った。
生まれたこと自体が苦悩のはじまりと説く仏教。ここで、その四つの苦である生老病死のうち「死」を目の当たりにした。ここの光景のように、死が日常の中にあることはいいことだと思う。死がぼやけると、生もぼやけてくる。
写真家であり作家でもある藤原新也も言っていた。
「死は生のアリバイである」
写真集「メメント・モリ」より
せっかくバナーラスまできたのだからと、仏教聖地とは違うけど数年ぶりにガンジス河まで足を延ばす。ここで見るべきはやはり、ガンジス河のほとりにある火葬場のガートで有名な、マニカルニカー・ガート。毎日たくさんの死体が焼かれているのである。
日本のように建物の中で焼くのではなく、河のほとりで薪を積み重ね今にも見えそうな状態で焼かれる。ある程度焼かれると焦げた足や頭などが形をはっきりとしてくる。これらの光景を見ながら、自分も必ずいつか死に、そして焼かれたりするのだと思い想像して見るのだが、その想像もできているのかいないのか、明らかにならない。人間は太陽と死は直視できない、とどこかの哲学者が言っていたのを思い出す。
チベット仏教でも言われるのは、日常唱えたりするマントラと一緒に、たとえば一日に3回くらい「自分もいつかは必ず死ぬのだ」と唱えろという。でも、実際に生きている自分に対して、いつかは死ぬのだと分からせるのは、思うほど簡単なことではない気がする。それは、このように焼かれる死体を見てもそうなのだと思った。
生まれたこと自体が苦悩のはじまりと説く仏教。ここで、その四つの苦である生老病死のうち「死」を目の当たりにした。ここの光景のように、死が日常の中にあることはいいことだと思う。死がぼやけると、生もぼやけてくる。
写真家であり作家でもある藤原新也も言っていた。
「死は生のアリバイである」
写真集「メメント・モリ」より
ここがマニカルニカ・ガート。 燃やしては河に流す。貧しいと薪がたくさん買えずに半焼きで流されるという。 ワンボはここからなかなか離れられなかった。 かりんは、何のことだか分からなかったはずだが、 ずっと見ていたら、熱い・・・と言って離れたがった。 |
ガンジス河のほとり。たくさんのガートがある。沐浴をする人も。 |
ボートで河を味わう。乾季の今は対岸にも渡れるが雨季は水没する。 |
かりんは、ボートにご機嫌。水をさわってみたりした。 |
ボート漕ぎのおじさんと一緒に。 |
1時間、ゆったりとボートを味わった。 何か、死と隣り合わせのこのガンジス河は、懐が深い気がした。 |
初めてココナッツのジュースを飲むかりん。お腹にいいんですよ。 |
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